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風の噂によれば、石間秀機は高校卒業後、札幌でバンドを結成しギタリストとしての
キャリアをスタートさせたが、彼がギターに触れたのはこのときが初めてだったという。

1964年、彼はこのバンドを抜けて上京し、ジ・アウトロウズを結成。
アウトロウズはその後ビーバーズと名を変え、GS最高峰だったスパイダースの弟バンドとして、
67年7月「初恋の丘」でデビューする。
大きなヒット曲こそなかったが、ビーバーズは実力派GSとして一目置かれていた。
事実、僕も石間秀機のギタープレイを見に、彼らのステージに通った当時のロック少年を知ってる。

GSブームが終焉を迎えた68年、ビーバーズは解散。この年、石間秀機は内田裕也に誘われ
フラワーズに参加。ロックの時代を切り拓くべく、フラワー・トラヴェリン・バンドと名を変えた。
彼らは69年10月ファーストアルバム『ANYWERE』を発表。大阪万国博のステージで知り合った
カナダのバンド、ライトハウスのメンバーに誘われ、日本のバンドではほとんど前例のない
本格的海外進出を目指し、同年12月カナダに渡る。

フラワー・トラヴェリン・バンドは、日本人としてのオリジナリティを表現した
アルバム『SATORI』(71年)をカナダでチャートインさせるなど一定の成功を収め、
72年3月にカナダ録音のアルバム『MADE IN JAPAN』をもって帰国。
しかし、翌73年4月、日本のロックの発火剤としての役割を果たして解散、伝説の世界に入る。

バンド解散後、石間秀機はソロ・アルバム『ONE DAY』制作、クニ河内のアルバム『切狂言』への参加、
杉田二郎とのコラボレーションなどを経てトランザムを結成。
74年のデビュー・アルバム『トランザム』で高度なアンサンブルを聴かせた。
しかし、2枚のアルバムを残して彼は脱退、その後はひとところに安住することなく、
広大な音楽宇宙を放浪するように活動を展開していく。

昔


今

そのいくつかを紹介してみよう。フラワー・トラヴェリン・バンドの盟友でもあったジョー山中の
アルバム『TO THE NEW WORLD』(77)『GOING HOME』(78)
『REGGAEVIBRATION』(84)の参加やライヴでの共演。

萩原健一とドンジュアンR&Rバンドを結成し、
ライヴ活動と共に『DONJUAN』(80)『デランジェ』(82)
『SHANTI SHANTI LIVE』(83-インド・カルカッタで行われたマザーテレサ・チャリテイコンサートの
ライヴ盤)、『THANK YOU MY DEAR FRIENDS』(84)などのアルバムを残す。

沢田研二とバンドCo-coloを結成し『Co-colo1-夜のみだらな鳥達-』(86)『告白』(87)
『TRUE BLUE』(88)をレコーディングし、ツアーを行う。

この他、根津甚八のアルバム『火男』(82)の制作とライブ参加、
新人バンド、バッドシーンのデビュー曲「サハラ」とアルバム『バッドシーン』(81)のプロデュースや、
神代辰巳監督の映画『戻り川』(84)の音楽なども手がけている。

以前、彼にインタビューをした時、この時期のキャリアについて水を向けると、多くを語らずに、
「うん、いろんなことしたよね」と、ちょっと照れたように笑っていたのが印象的だった。

確かに、この活動ぶりは多彩だが、ちょっと注意して見れば、ギタリストとしての彼が自在なスタイルや
高度な技術を駆使しながらも、常にヴォーカルとのハーモニーを求め続けてきたことが感じ取れる。

1998年、石間秀機はインド・ビシュヌプール派最高峰のシタール奏者、パンディット・モニラグ・ナグ氏
と出会い、その豊かな表情にあふれた演奏に魅せられ、彼に師事する。

そして、シタールとギターを融合させたオリジナル楽器シターラを開発し、2000年には
、 アメリカ・カリフォルニアでのナムショーに出品。演奏家としても、シターラ・シタールによる
本格的活動を展開。さらに、同年、ユニットPythagoras Partyを結成してアルバム『MORE-ish』を
リリース。さらなる音楽の地平へと向かう。

気まぐれとも見える足跡は、石間秀機の音楽に向かう姿勢の純度の高さの素直な現れなのだと思う。
常に正直に、その時々の自分に共振する音楽に取り組んできた石間秀機はその姿勢をもったままいまを歩き続けている。

文責・前田祥丈